「ぼろ」とは悪いことだろうか?
「ぼろ」とは簡単に作りあげられるものではない。お金がなくとも節約して自分で直しつづけることで、あるいは放ったらかしにしつづけることで、何年もかけて醸成されるのだ。
「ぼろい」店を訪れることで、お金をかけて見た目を取りつくろうことなんかよりも大切なことがわかる。「ぼろ」の中には輝くものが見える。だからこそ、「ぼろ」を追いかける。「ぼろ」は、ロマンなのだ。
宮崎県で最も古い温泉地
「温泉」。それは日本人であれば一度は入ったことがあるものだろう。特に九州には温泉が豊富に湧き出ており、家に風呂がなく公衆温泉浴場を使っている人も多く存在している。
今回の場所は、そんな九州・宮崎にある温泉宿だ。古くから湯治宿として利用されたそこは今、熟成されてかなり雰囲気があるというタレコミをいただいた。
久しぶりの宿泊、しかも老舗の温泉宿のようだ。ここのところずっと雨模様で、疲れ切ったこんな日の締めに入る温泉は、さぞ気持ちの良いものだろう。
ウキウキしながらナビ通りにその場所に向かうが、宿泊施設らしき建物はない。何度か道を行って戻って、ふと、ゆっくりとブレーキを踏んだ。
「もしかして…ここ?」
「これは……雰囲気があるってレベルじゃないぞ!!」
私は身震いをせずにいられなかった。
なぜなら辿り着いた温泉宿は、
どう見ても、廃墟だったからだ。
崩れ落ちた家屋。そして中庭に散らばる廃棄物のようなもの。緑はまるで旅館そのものの存在を隠すように生い茂っている。
嘘であれば良いのにと若干の期待を込めながら見上げた入口には、事前に聞いていたその宿名が、案外綺麗な文字で書かれている。
ここが今日の宿、「鹿の湯」さんである。
ひぐらしのなく頃に
カナカナカナカナ……
いつの間にか雨は止んだようだ。入れ替わるように、ひぐらしの大合唱が響きわたる。少し不気味さも伴うそれは、まるでこの旅館がここを訪れることを拒絶しているかのように思えた。
でもそんな不穏な気配とは裏腹に、ここの館長さんは大変温厚そうな人であった。

▲館長・柴田信男さん(68)
「予約の人ですね。見ての通り、ここはボロですからねえ。もしあれでしたら他にも宿はありますので…中を見て泊まるか決めてください」
宿に泊まりに来てそんな風に言われたのは初めてだったので、やっぱりまた不安に陥る。
そんなこと言っても中を見てから泊まるのを辞めるなんて、いくらなんでもそんな失礼なことは出来ないだろうとも思いながら、促されるまま靴を脱ぐ。
先ほどまでの雨のせいなのか、旅館の内はしっとりと重く暗い。
ふと足元を見ると、玄関マットに何かが落ちている。
アブだ。生きているのか死んでいるのか、分からないけど私はその大きな黒点から目を離すことができなかった。飛んできたら嫌なので、少し離れた場所にそっと一歩足を踏み出した。
それによってマットが動いたが、アブは飛ばない。どうやら死んでいるようだ。
軋む古い階段を上がり、2階へと行く。
破れた障子を横目に歩いていくと、衣装ケースが見えた。
「最近すごい雨だったので、ちょっと雨漏りしてましてね」
天井からはまるで某化粧品のCMのように、ぽた、ぽた、ぽたとその抽出液が絶え間なく落ちていた。ずっと見ていれそうだと思ったけど、館長がズンズン先へと進むから、その後を慌てて追いかけた。
「部屋はここです。奥が隣の部屋と繋がっているので、必ず内鍵をしてください」
部屋は、網戸が破れていたり畳がぶよついていたり埃っぽかったけども、見た目は案外普通であり、ホっとするような残念に思うやら、複雑な気持ちになった。
奥を覗き込むと台所になっていて、使い込まれたキッチン道具が見える。ここで湯治客は自炊をするのだろう。
「洗面所はこちらです」

▲まるで血飛沫のように錆びきった洗面所
「万が一火事なんかになったら、ここから逃げてくださいね」
「火事…」

重い扉の向こうには藪が広がっている。さらにその藪の奥には、別の廃屋が見えた。
カナカナカナカナ……
暑いはずなのに、ひぐらしの声というのは、何故こんなにも背中をヒヤリと涼しくさせるのだろう。私はそっと扉を閉めて、ふうと息を吐いた。
鹿の湯400年の歴史
「ここの鹿の湯の歴史は古いですよ。天正五年から続いています。鹿の湯という名前は、この温泉でシカが傷を癒していたことから付いたそうです。といっても、全国で同じ語源の鹿の湯は6箇所ほどあるというから、本当のところはどうかわかりませんけどね」

▲鹿の湯がある吉田温泉郷の記録

▲さすが歴史ある湯治場、古文書のような記録が残る
「最初は温泉だけあって、上に簡単なほったて小屋みたいなのがあったそうです。宿としてこの建物ができたのは……どれぐらい前でしょうねえ。でも相当古いですよ」
「そうそう、この間掃除をしていたら、古い障子の裏から明治36年の新聞が出てきました。もちろん、障子でそれなので建物はもう少し古いかな」
明治36年ということは、100年はゆうに経っている。

▲大人数で宿泊する用の大広間
「こんなぼろ宿だけど、不思議といろんな人がいっぱい来るんです。そして、気に入ってくれてリピーターになる人も多い。例えば、この大広間で毎年一回バイカー達がオフ会をするんですよ」
「先日は長野県・諏訪の方から70過ぎのお爺さんが来ましたね。その人もリピーターです」

▲写真が傾いているのではない、襖と梁が経年で歪んでいるのだ

「9年も、すごい!それってもうアパート貸しみたいですね」
「そう。しかも90歳のおじいさんでね。結局最後は痴呆が入っちゃって、大変だったけどね」
「ここはね…訳ありの人も来るんですよ」
「訳あり、ですか」
「ちょっと前までは、36歳の女の人が一年十ヶ月ここで湯治をしていました。上の花屋でアルバイトをしながらね。家出みたいな感じだったみたいです。怪我して家族が迎えに来たけどね」
「なんかもうすごい映画みたい」
「こう言っちゃあなんですが、ああヤバイなって人も来る」
「ヤバイって、どうヤバイんですか?」
「自殺しそうだなって人。顔を見たら何か違うのが分かるんですよね。他の湯治客もあの人大丈夫? って教えてくれます」
「そんなこともあるんですね…」
「特に女の人ひとりってのはちょっと心配なことが多いのですけど、あなたはぜ〜んぜん大丈夫そうだね」
「ちょっとは心配してください」
「あと、そんな自殺しそうな人も、みんな生きて無事帰られるから良かったですよ」
不思議な宿である。全然商売っ気がないのに、リピーターが多く、長年居つく人も数多くいる。自殺しそうな訳あり人も、ちゃんと生きて帰っていく。
正直に言うと、ここまでボロい宿だとは思っておらず戸惑っていた。でも、こんなにも大勢の人を惹きつけるこの宿の良さとは、なんなのだろう。ここの温泉に入ったり泊まったりしたら、その良さを体験できるのであろうか。
「宿泊費、払いますね」
「もう払っていただけるんですか? 大丈夫ですか? このままどこか行っても良いんですよ」
笑ってしまうくらい、この館主は商売っ気が無い。不思議な宿である。
激渋な極上温泉浴場へ
部屋に荷物を置き、さっそくだが温泉に入ることにした。
温泉は宿舎を出た正面にある。これまた、凄い雰囲気の建物である。
「これって何ですか?」
「ここは木材を燃やして沸かしています。その燃殻ですね。綺麗にしないといけないんですが、なかなかねえ」

▲他では見ることがない燃殻が、入り口の前に小山となっている。
「この温泉、昔は24時間入れたんですけどね。昭和43年に起きた地震で地殻変動が起こって温度が下がってしまったので、こうやって火を沸かさないといけないんです」
「利用者は地元の人がほとんどです。昔から家に浴槽がないところが多いので、お風呂に入りにくるんです。地元の人は月極で支払っていますね。昔はお米で払っていたそうですよ」
「では、ごゆっくり」
建てつけの悪い引き戸をあけると、脱衣所には誰もいなかった。古めかしい内装に、鮮やかなプラッチックのカゴが眩しいくらいであった。
浴室は階段を降りたところにあるようだ。
先ほどのボロ宿舎を隅々まで見た後である。もう何を見ても動じないと思っていた。
だが、浴室を見てその考えは浅はかだったと思い知った。
「すごい」
温泉の成分が付着したのか、それともコンクリが溶けていったのか。浴室の床も浴槽の縁も、茶色くボコボコと変形している。

▲まるで鐘乳石のような変化を遂げたコンクリート

▲天井には蜘蛛の巣と草の枯れた根が這っている

▲勿論写真が歪んでるのではない、歪んで閉じられないドア
手前が沸かしたばかりの熱いかけ流しの風呂で、奥がぬるめの風呂のようだ。
体を洗い、ざぶんと入る。
温泉は、思ったよりもサラサラとした泉質である。微かに鉄のような匂いがするが無色透明だ。
そして、とても気持ちがいい。体が包まれるような気がした。
そうこうしていると、地元のおばちゃんが入ってきた。
ボンヤリとぬるいほうの湯に浸かりながら眺めていると、こんなにボロいのに次々にお客さんが来る。館長が言っていたように、ここの地域にはお風呂がない家庭が多いのだろう。
世話焼きそうなおばさん、腰の曲がったおばあさん、子連れの若いママ。みんな顔見知りのようで、挨拶してはサッと体を洗ってはザッと浸かり、そしてスッと出て行く。その光景は、自分が知らない誰かの日常の一コマであった。
結局最後まで風呂に浸かっていた。上がると、さっぱりと汗が引いて大変心地良かった。

▲あがり湯用の小さな浴槽
部屋に戻る。畳は湿気で若干ぶよついており、そして埃っぽい。
そこに覆いかぶせるように布団をひく。この上なら安心して寝転べると思ったら、その布団も寝タバコで焦げていたり何かをこぼしたシミだらけだったし、おまけにペラペラのせんべい布団だった。
どこまでも、ボロの極みである。
「しょうがない、まぁ、いっか…」
「クーラーないじゃん…網戸破れてるじゃん…まあ、いっか……」
窓を開けたまんまで部屋の明かりを消した。外の雨音はどんどん強くなっていく。寝ている間に、このボロ宿は潰れてしまいそうである。
せんべい布団にくるまる。これでは自分がタマゴせんべいの具にでもなったような気分である。
でも、意外なくらいぐっすりと熟睡できた。
湯治宿のふしぎな魅力
翌朝、目覚めるとやっぱり雨だった。窓の外を見ると、この宿の凄まじさに驚かされる。
旅の途中でこれから行かないといけないところがあるのに、雨が酷すぎて外へ出る気がしない。二度寝三度寝と繰り返す。そうして結局、昼ごろまでずっと部屋に居てしまった。
そう。自分でも信じられないことに気付きつつあった。
ボロボロだし、雨漏りしてるし、綺麗と言えないし、虫も多いし、クーラーもないし、畳もぶよぶよだし、せんべい布団だし……
……でも、なんだか、
滅茶苦茶に居心地が良いのだ。
歯を磨こうとノロノロと部屋の外へ出ると、館主に会った。
「おはようございます。すみません、こんな時間までダラダラしちゃって」
「いいんですよ、ゆっくりしていってください。来た人はみんなそうなるんですよ、不思議ですねぇ。気にいる人は、本当に気に入ってくださるみたいでねえ」
「ぼくは昔、実は東京にいたんです。毎日満員電車を1時間とちょっと乗り継いで通勤して。結構な大企業で働いていたんですよ。でも、大都会の孤独を感じながら生きてた。東京の人はみんな急ぎ足で、何もかもが窮屈で」
「父親がここで温泉旅館をやっていたので、それを引き継ぐために脱サラして戻ってきたんです。都会を経験したからわかるけど、やっぱり良いですよ、田舎は」
立ち話をしていると、風呂舎から坊主頭の男性が出てきた。
ぺこり、と頭を下げて私たちの横をすり抜け宿舎の中に入っていく。
「今通り過ぎた人も、もう半年も居るお客さんです」
「お客さんが他にも居たんですか。しかも半年もここに居るんですか…!」
「今の人、訳ありみたいな風貌ですよねぇ。でも何があったとか、そんなことは一切聞かない。疲れた体を温泉で癒して、好きなように過ごしてもらう。湯治場ってそういう場所だからね」
その時、この究極なまでにボロい宿が何故こんなにも落ち着くのか分かった気がした。
この宿の過剰なまでのボロさ緩さに、訪れるものほぼ全ては、「許される」のだ。ぼろぼろで良い。汚くても良い。ダメでも良い。体の病気も心の病気も、何もかもを受け入れる優しさを持ち、この湯治宿は長年ここに在り続けた。
これがきっと、この「鹿の湯」の持つ魅力のひとつなのだろう。
「また来ていいですか?」
「こんなところでよければ、勿論。でももう商売っ気がないからねえ。この宿も、来年には無いかもね」
「ええ、やっぱりもう一泊していこうかな」
「はは、お好きなように」
宿を出て、改めて鹿の湯を見る。緑に覆われていて、その全貌はわからなかった。
気の済むまでゆっくりとゆっくりと沈みたくなったら、また来よう。それまで、ボロく優しいこの湯治宿が残っていますように。
最初来たときには想像もできなかった、言いようもない名残惜しさを振り切るように、私は車を発進させた。
宿の情報
鹿の湯温泉
宮崎県えびの市大字昌明寺689
0984-37-1531
入浴可能時間9:00〜21:00
素泊まり1800円
立ち寄り湯350円